日々思う事を書くだけ

たわいのない事を徒然書き出していこうと思います。

過保護は愛じゃないと思う件について。

現代での日常会話では、
「自分の代わりに自分を愛してもらう」事を、「愛される」という。
「自分が偉大になったかのような環境作りに貢献してもらう事」もそれに含む。
ステータスの為に美人の伴侶を選ぶっていうのもその一環だよね。


でも、
「相手の代わりに相手を愛する」事は、「過保護・過干渉」という。
※あくまで日常会話の範疇で、学術的な話は除いているよ。
好んですると嫌われる行為だし、する側も自分自身を疎かにしてしまうから辛い。
自覚なくそれをやっていたら、だたの「搾取」を受けている状態で、それも辛い。


日常会話の範囲内で、愛が成立しない。

努力で壁は超えられるが、超えてはいけない壁がある件について、

挫折せず、諦めず、障壁に立ち向かうって、素晴らしい事だと思う。
それと同時に「でもそれ、私には当てはまらないよね?」と制御する。


こういう類の話の前提はきっとこんな感じ。
誰かが超えられない自分の壁を超えたなら、社会的にメリットがあるはず。
ないはずだったものが社会にとってあるになるわけだから、応援するはず。
そういう事であっているよね。


私が頑張ったら、皆の頑張りが無駄になるし、人も、社会も壊れる。
何度も壊してしまってウンザリと反省はしているけど、トラウマになったわけではない。
単純に、やり方の問題じゃなくて、やりたい事が、メリットと感じる事が違うんだろう。
頑張って輝いてみたいけど、それは、やっちゃいけないんだよね。


昔の自分の手記に「諦めて受け入れるのは、誰を裏切る行為か?」って書いてあった。
あれから10年。
今はとにかく、こっそりでいいから、生き続けていたい。

欧米映画を観ていると自分の感性が異常だと思う件。

幼少期、アニメは見たけど映画は観なかった。
トトロともののけ姫ぐらい。


最近、ネットフリックス様様を、英語の練習をしながら観るようになった。
字幕を見つつ、主に英語を聞き取れるようになろうとしている。


そういう意味では、映画の内容自体はおまけ程度の利益でよかったのだが、
ビックリしたのが感性の違い。
自分が登場人物と同じ状況であっても、絶対に同じように感じないし、同じ行動をしない。
画面の中の人間が、私の既存の概念にない行動をし出す。
飽きさせないシナリオの都合かとも思ったが、
クライマックスでもそうなるからマジっぽい。
「こういう事? こう考えているのか?」と思索して、情操の勉強をしている事態だ。


映画って凄い影響力だと思う。
アニメでは「こいつら変人なんだな」くらいに切り捨てていた(と思う)ものが、
人間がリアルそうに演じている事で無視できなくなってしまった。
いや、アシタカにもモロにもエボシ様にも、普通に理解と共感はできたんだけど……。


国民性の違いなのかもしれない。
とにかく、あんまり自信を失わないように気をつけようと思う。
国民性ならなおさら、無意識的に真似して良さを潰すなんて事のないようにしたい。
あとそういうの真似している日本人がいるはずだという前提で動かないと、
空気読めなくて干されるんだろうと思った。